年齢や障害のあるなしに関係なく、音楽が好きになる笑顔あふれるレッスンがモットー。
そしてピアノの先生は第2の母。一緒にお子さんの成長を見守ります。
むらかみピアノ音楽教室
代表
村上 知枝美
むらかみ ちえみ
保育園、幼稚園、高齢者施設、障がい者施設、小中学校、病院、ターミナルケアでの演奏、講演会も多数行っています。
<趣味>
マラソン、トレイルランニング、山歩きなど自然が好き、和裁
昔のピアノの先生は怖くて厳しいと言う イメージありましたよね。
私はまず、様々な環境にいる生徒さんとお母様を受け入れることから始めています。
ピアノを教えるだけの知枝美先生ではありません。しつけや道理だってちゃんと話して聞かせます。悩みを聞いたり ただ寄り添ったり…。 時にはダメなものはダメ、と叱る強さが指導者には必要になります。
ほとんどの人は傍観者です。余計なことは言わない。見ないふり。そんな風潮の世の中ですが、そんな時こそ身近な存在、第2の母であるピアノの先生登場です。
勿論これにはお母さまとのコミュニケーションもとても大切になってきます。
ピアノの先生は、お子様にとってもお母さまにとっても、太陽でありお母さんのような 存在なのです。 私はそうあり続けます。
音楽教室をはじめるまでのヒストリーを振り返りました。お時間ある時にぜひ読んでいただけたら嬉しいです。
とにかく音楽が好きな子供でした。
親戚の結婚式で歌った「ちゅうりっぷ」。
親戚なので当たり前ですが、褒められた事が嬉しくて、人前で歌う快感を知りました。
ピアノは小学校1年から。小学校横の河合音楽教室に通っていました。
はじめは家にピアノが無くて、オルガンで練習していました。
ピアノの先生は、とにかく「オシャレ」で私にとって憧れの存在でした。
いつもメリーのキャンディーを持ってらして「先生はこんなキラキラのキャンディー をおやつに食べるんだ」と思ったことが、とても印象深く記憶に残っています。
小学校では、鼓笛隊でトランペットを担当。
中学に入ってからは、ピアノをほとんど練習しませんでした。そのかわり、吹奏楽でサックスを担当していました。
中学3年の文化祭で、全校生徒1000人位の前で「マイウェイ」を英語で歌いました。 本当に気持ち良かった。 合唱のアレンジが楽しかったのを覚えています。
とにかく楽しかった中学の3年間でした。
その一方で、私は一人っ子ですが、いつも年上のいとこ達と比べられているように感じはじめた時期でもありました。
私がちょっと歌が歌えたりピアノが出来ても「当たり前」「普通」の評価しかしてもらえず、とても嫌でした。
いとこ達には、のちに私と同じ音大でヴァイオリンをやる子がいたり、東大、慶応レベルの秀才がいたり。今思うと自信がなくひねくれていたのでしょうね。
それでもやはり音楽が好きだった私は、音大に行きたいと高校に入学。ピアノの練習も再開し、声楽、ソルフェージュを始めました。
高校では合唱の伴奏もさせてもらいました。 高校3年の時が、生涯で一番ピアノの練習したかと思います。
一浪して入った大学の友人達は、皆お嬢様でした。
友人のお父様は、会社経営者、銀行頭取、会社役員。 不動産、株式を持っているのが当たり前。 うちは普通のサラリーマン家庭でしたので違和感を感じ、少し距離を置いていました。とはいえ、旅行に行ったりコンパをしたり、それなりにキャンパスライフを楽しみました。
ユニークな経験もしました。
ヤマハのポプコンが好きでヤマハに入り浸り、写譜を撮影させてもらったり、クリスタルキングの田中さんの打ち上げに参加できたことも良い思い出です。
タレント事務所に入り、テレビ、モデル、歌のユニットで活動していたこともあります。その時は単に、ちやほやして欲しかったのだと思いますが、選挙のウグイスは未だにやってます。
また、ホノルルマラソンに出場したほどハマったマラソンは、趣味として今も続けています。
大学時代のピアノとの向き合い方は…、試験に合格すれば良しという感覚でした。
名古屋音楽大学卒業して、同じ敷地にある同系の同朋大学の研究室に就職しました。浄土真宗の大学なのでお寺の友人が多いです。
結婚するまでの2年半は、マラソンとトライアスロンに明け暮れ、音楽は、友人の結婚式で弾き語りしたり、頼まれるとピアノを弾くくらいでほとんどしてませ ん。
社会にでて40歳過ぎるまでは、自分がいかに恵まれて生きてきたか気づかなかった。
いじめや死にたいほどの苦難にあったことはなかったですね。
周りは、お嬢様、いとこもみんな秀才。
音楽ができること、音大に行けることのありがたみも感じていない。
音大を卒業した事はアクセサリー感覚。
実際当時は、音大卒は嫁入り道具の一つ。
ピアノが弾けて歌えて、地味にタレント活動もできて…それが当たり前だと思っていました。
「あぁ、結婚したいな」と思う相手は沢山いましたが、今の旦那と26歳で結婚。
私の音楽の仕事には協力的です。
27歳で長女を出産。 29歳で長男の出産を目前に控えたある日、それまで、なんの苦労もせず生きてきた私に、神様は大きな「試練」を与えました。
長女の耳が聞こえていないことが分かったのです。
1歳5か月まで発達などの異常もなく育っていましたし、私がピアノを弾くと隣で嬉しそうに鍵盤を触っていました。 耳が聞こえていないなどと疑いもしませんでした。
しかし落ち込む暇もなく補聴器・障害者手帳を作り「長女の訓練」が始まりました。 障害者手帳には長女の写真が貼られているのですが、その無邪気に笑う写真を、辛くて見ることができない私でした。
当時主人は自衛官で「政府専用機」に搭乗していました。 そのため結婚後すぐ、赴任先の北海道の千歳市に住んでいました。
長女の検査結果の2か月後、北海道千歳市で長男を出産。
雪の多い北海道で、産まれたばかりの長男を抱えて「訓練」に札幌まで通うなどできません。 仕方なく主人を単身千歳に残し、子供達を連れて私は実家のある愛知県に戻ることになりました。
そして愛知で聾学校と愛知保健センターに通うことになります。
念の為、生まれたばかりの長男の耳の検査もすることに。
結果は、長女と同じで耳が聞こえていませんでした。
その頃の記憶は、あまりありません。
もうただ、2人も耳の聞こえない子を産んでしまったことが、 情けなくてみじめで仕方ありませんでした。 毎日毎日二人の子供を道連れに死ぬことばかり考えていました。
ある日、寝ている長男の首に手をかけようとすると、起きて泣き出してしまった。 私は泣き声で我に返りました。
そんな辛い夜でも朝は来ます。 そして朝になれば「長女と長男の訓練」に通わなくてはなりません。 忙しさが私を死なせまいと支えてくれていました。
二人目も障がい児と分かり主人も北海道から愛知に転属となりました。
私の両親の助けを得て、必死で訓練と子育てをする毎日でした。
訓練に通いだした私は不思議と、耳の聞こえるお子さんを羨ましく思うことだけは一切ありませんでした。
でも同じ障がいを持つ子供とは、比べてしまう。 お勉強のできる聾のお子さんが羨ましくて仕方ありませんでした。
長女は聞こえないと分かった頃からトイレトレーニングを始めました。 言葉を覚える訓練をしてくれない長女には、虐待まがいのスパルタで、親子共々精神的に 追い詰められていきました。
出来の良くない長女が不甲斐なくて、お勉強のできる子が羨ましくて仕方なく。
私まで出来の悪い母親のレッテルを貼られた気になっていました。
こんなに私が一生懸命やっているのにどうしてできないのかと。
当時の私は鬼のような顔つきだったで事しょう。
そんな頃でした。 私は妊娠したのです。
まだ長女は2歳、長男は1歳にもなっていません。 主人は私に堕せと言ってきました。
もし、また聞こえない子供が生まれたら?
もっと重い障がいの子が生まれたらどうするのだと…。
私は一人っ子でしたので子供は沢山ほしいと結婚前から考えていました。
どんな子が生まれようと私は産む。
泣きながら主人を説得したのでした。
産むと決意したものの毎日心が悲鳴を上げていました。 被害妄想、被害者意識の塊になった私は、お腹の大きな私を見て皆が笑っているように思えてなりませんでした。
「また、聞こえない子供を産めばいいのに」
「二人も障がい児がいるのに3人目をよく産むわね」
そう言われていると思い込んで、さらに私は鬼のような顔つきになっていきました。
将来二人が困らないように、
できる限りのことをしてやりたい、
あれもこれも教えなくて は…。
そう思っていても、子供達はそんな鬼のようなお母さんのいう事など聞く訳がありません。 どんどん大切なものを見失い一人空回りする私でした。
長女の療育に行き詰った私は、当時有名だった静岡の言葉の教室に通い始めます。
生まれて間もない次女と長男を私の両親に預けて、新幹線で週に1回1年ほど通いました。
その教室に通う子供達はエリートで、発音も綺麗でお勉強も出来ました。 母親教育も大変厳しく毎週出される課題をこなすことで精一杯の生活でした。
ここでさらに私の長女への押し付けは強くなります。私がやらなきゃ、私が出来ないからこの子が出来ないのだと…。今思えば追い詰められて精神的におかしくなっていたのです。
静岡に行くある日、長女が熱を出します。 にもかかわらず私は、他の子に遅れることが怖くて休むという選択肢などありませんでした。 熱のある4歳の子供を連れて名古屋に向かうJRに乗りました。
そして、通勤ラッシュの電車の中で長女が嘔吐してしまった。周りの方にも迷惑をかけ自分の洋服も汚れてしまいました。
そこでやっと諦めがつき電車を降りることが出来ました。
ベンチに座りどうすることも出来ない虚しさと情けなさで涙が出たことを覚えています。
完全に私は母親失格です。
長女の身体のことより訓練を1回休むダメージを心配していたのですから。
ある日、ふと本棚から一冊の本を手に取りました。
その本は、名古屋音楽大学を卒業し就職した同朋大学で知り合った友人からもらったものでした。同朋大学は、私の卒業した名古屋音楽大学と同じ系列で浄土真宗の学校です。
本のタイトルは「子どもたちよありがとう」
著者は浄土真宗のお寺に嫁ぎ、3人の子供に恵まれますが、長男は問題児でいつもいつ も檀家さんに謝りに行ったそう。 そして妹が生まれるのですが重度の脳性まひ。 どれほど子育てが大変だったことでしょう。 しかもその著者である彼女はがんに侵され、42歳の若さで3人の子供を残し亡くなってしまうのです。 私は本を読みながら大声で泣いていました。
それまでに我慢しため込んでいた悲しみがあふれてきたのです。
そして思ったのです。 全然言葉の勉強をしてくれない長女につらく当たり、長女が出来ないのは私がダメな母親なんだと思い込み、子供の気持ちを考えてあげる余裕など全くなかったことに気づかされたのです。
3人の子供を残し亡くなった彼女はどれほどさみしく悲しかったことでしょう。 それを考えた時、彼女の声が聞こえたような気がしました。
優しく微笑む彼女は私にこう言うのです。
子供の傍で生きているだけでいいじゃない、
よその子と比べるのも押し付けるのも止めて
ただ、あなたは笑っていればいいんじゃない?
目が覚めた私は、自分の生き方を探し始めます。
長女は2歳の頃から、カトリックの教会が運営する無認可の幼稚園「モンテッソーリ子どもの家」に入れてもらっていました。 当時は人数も少なくて 脳性麻痺、ダウン症、自閉症と障がい児も何人か通うアットホームな園でした。
ここで長女は好きなことを好きなだけさせてもらいました。 小さな「満足感・達成感」 を与えてもらい「集中力・忍耐力・手先の器用さ」をしっかりと身につけることが出来たのです。ここでの経験が、将来就職への大きな手助けになるとは、この頃は思いもよりませんでした。
子供に押し付けることをやめてから、私は自分の内面と向き合うようになっていました。
「なぜ、私の元に二人も聞こえない子どもを神様は授けたのか?」
そんな疑問を抱く中、シュタイナーのある言葉に出会います。 障がいを持った子は高い魂レベルの持ち主であると。
気持ちがとても軽くなりま した。
各務原に越してきて縁があり、長男と次女はシュタイナー教育を実践する幼稚園に通わせました。 モンテッソーリ教育の園に4年間、シュタイナー教育の園で3年間学ばせてもらいました。
当時「聞こえない子供を二人も生んだ私に、音楽をする資格などない」といじけて、音大を出たなどと恥ずかしくて周りに話すこともありませんでした。
ピアノも歌も自分で封印していました。
そんな私に転機が訪れます。
私たち家族は長女の就学にあわせて今住んでいる岐阜県各務原市に引っ越します。 入学した学校の先生や友人にも助けられ、子供達は成長していきました。
長女の通う小学校は障がいのある子供の療育にとても熱心で、先生方は本当によくしてくださいました。
長女に続き長男も、同じ小学校の難聴の子が通うクラスに通い始めます。
その小学校では3月に学習発表会を行います。それぞれの学年で合奏、群読など保護者の前で披露するのです。うちの子供が通う基本学級、今でいう特別支援学級でも発表をします。
その発表会で、情緒・知的・難聴のクラスの子供達はハンドベルを演奏しました。
長男はステージに上がると知的のクラスの子に立ち位置を教えたり、長女も満面の笑みで ステージに立っています。
キラキラ星の演奏が始まりました。
ところが耳の聞こえない二人は曲に遅れてずれてしまうのでした。
それでも最期まで胸をはり演奏しきった。
その二人を見て言葉では言い尽くせないほどの感動を覚え、自分の中の何かが音を立てて崩れていくのでした。
ただ涙をこらえるのが大変でした。
聞こえない子供を産んだと嘆き悲しみ、取るに足らないプライドでピアノや歌を遠ざけていたこと。
本当に感動する音楽とはなにか?
大学で教えてもらえなかったことを耳の聞こえない 子供から教えられたのでした。
ピアノが弾きたい、歌いたいと心の底から熱い思いが沸き上がってきました。
それからは小さなコンサートをさせていただくようになりました。 この子たちがこうして育ってこれたのもママ友、先生、家族、多くの方々のおかげだと気づかされたのでした。
私にできることは何か?
音楽以外に考えられませんでした。
障がいのあるお子さんも来てくださるようになり学びを重ねました。
子育てに関する講演会にも呼んでいただけるようになりました。
今ではライアーの生徒さんを含めると30人近い生徒さんに囲まれた幸せなピアノの先生になることが出来ました。
私は障がいのある子供を社会的に自立させることができました。
私ひとりでは育てられない子供達でした。 多くの方の支えがあればこその今があります。
これからの人生をかけて恩返しをしたいと考えています。
私にできるのは「音楽」なのです。 年齢や障がいのあるなしに関係なく「音楽のある豊な人生」を提供させていただきたいと考えています。
親子関係、療育の相談にも応じます。どんなことでもお話しください。
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